一般社団法人 日本サステナブルシーフード協会 代表理事
おさかな小学校(Fish Elementary School) 校長
東京海洋大学 特任助教
鈴木 允
日本を囲む海とのつながりを学ぶオンライン教育プログラム「おさかな小学校」(Fish Elementary School)。毎月ひとつの魚介類をテーマに、実物の魚や模型などを使って解説しながら、生き物の生態や環境問題、漁業や食文化まで、幅広い内容で楽しく学べる授業を行っています。プログラム名は「小学校」ですが、その保護者も授業に参加することができ、大人と子どもが一緒になって海や魚について考える場となっています。
このおさかな小学校を開校したのは、一般社団法人 日本サステナブルシーフード協会 代表理事の鈴木 允さん。京都大学在学中に一念発起で漁師見習いを始め、大学卒業後は築地市場で水産卸売会社のセリ人に。その後MSC(Marine Stewardship Council:海洋管理協議会、以下MSC)の日本事務所を経て独立し、日本漁業認証サポートと一般社団法人 日本サステナブルシーフード協会を立ち上げて独自の活動をしてきました。
本インタビューの前編では、そのユニークな経歴のきっかけとなった出来事や、これまでの歩みについて伺います。
鈴木 允(すずき まこと)
1980年、東京都生まれ。京都大学総合人間学部在学中に漁師見習いの生活を体験し、大学卒業後は水産卸売会社のセリ人として築地市場で8年間働く。さらに東京大学大学院農学生命科学研究科で学びながら、非営利団体MSCの日本事務所に入り、認証プログラムと海のエコラベルを広める活動に尽力。その後独立し2019年に「日本漁業認証サポート」、2021年に「一般社団法人 日本サステナブルシーフード協会」を設立。魚を獲る人と食べる人をつなぐ活動の一環として、子どもたちに向けたオンライン授業「おさかな小学校(Fish Elementary School)」を開講中。2025年より東京海洋大学水産サステナビリティ寄附講座の特任助教
——鈴木さんは10代の頃から食料問題に関心を持っていたそうですね。きっかけは何だったのですか?
高校1年生の時の授業で農業実習を経験したのがきっかけです。茨城県で有機農業を営む農家さんを訪問して、10日間ほど滞在しました。その時に、飼われているニワトリを一人でしめるという経験もさせてもらったのです。それが私にとっては強烈な体験で、自分の日々の食事は「命」をいただいているんだということを初めて肌で感じました。
その農家さんのもとには高校3年生までの間に何度も通って、田植えや稲刈りを手伝ったりもしました。その中で、将来は農業や食に関わる仕事をしたいと思うようになったのです。これから世界の人口が増えていく中で食料問題はどうなるのか、食料を通じて地球環境を考えてみたいと思うようになり、そういったテーマを扱うジャーナリストになりたいと言っていた時期もありました。
——農業をきっかけに食料問題を考えるようになったのですね。それから海の世界に関心が移ったのはなぜですか?
大学時代のある晩に、たまたまテレビで『白い嵐』という海を舞台にした映画を観て海の美しさと厳しさに心を打たれました。次の日に導かれるようにして訪れた古書店で「世界の漁業が危うい」という特集が組まれた1995年11月号の『ナショナルジオグラフィック』日本版[2]を手にしたのです。このことが私にとっては運命的で、農業だけでなく海の世界にもさまざまな問題があることを知りました。
それが1999年のことだったのですが、日本ではまだ乱獲など海の問題について声をあげる人はいませんでした。また、自分にとって海が新しい世界であると同時に、人類にとっても海はまだまだ未知なことが多い領域です。それで、海や魚の問題について一生をかけて取り組んでみたいと思うようになりました。まだ誰も見たことがない世界を自分が見てみたいという探究心もあったのかもしれません。
——大学生のうちに漁師見習いの体験をされたそうですね。
まず漁船に乗ってみたいと思ったのですが、当時はSNSもありませんでしたから漁師さんと接点を持つ機会がなかなかなくて。調べてみたら三重県で一次産業の就業フェアが開催されることが分かり、そこに参加して2泊3日の無料漁業体験に申し込もうとしたのです。ですが、就活生でもないただの学生の私は参加させてもらえませんでした。それでも「自腹で来るならいつでも乗せてやるよ」と言っていただいて、三重県熊野市まで定置網漁を体験しに行きました。それが大学2年生の時で、それから3年後に漁師見習いをさせてもらうようになりました。

——漁師の仕事を体験したことによって、海への認識は変わりましたか?
初めて漁船に乗せていただく前は、スーパーや魚屋さんで商品として並んでいる魚しか見たことがありませんでしたから、船上から網をたぐりよせて海面から生きた魚が上がってくる光景がとても印象的でした。一度にいろいろな魚が水揚げされることにも驚きましたし、見たこともない魚もたくさんいました。船上で捌いた魚でつくる味噌汁もおいしくて、とにかく楽しかったですね。その一方で漁師さんたちは魚を見ながらその日の売り上げを勘定したりしていて、同じものを前にしても見えている風景が違うのだということも感じました。
そのうちに日当をもらって家賃を払いながらその土地で暮らすようになり、近所の方に魚をあげると野菜が帰ってきて、という交流も始まりました。ですが、その集落もかつては1,500人ほどいた住人が今は300人ほどに減り、70代以上の方がほとんどで小学校も廃校。棚田が荒地になって鹿や猪や猿が畑を食い荒らしているという話も聞き、普段自分が食べている魚がこんなに脆弱な基盤から供給されているのだということに衝撃を受けました。
このままでは魚を獲る人がいなくなってしまうことや、消費者としての自分がこんなにも生産現場を知らなかったことに驚きましたし、生産者の現状は流通の過程で全く伝わらなくなってしまうのだなと思いました。当時、魚の流通について書かれた本もあまりありませんでしたし、漁師さんたちも、自分が獲った魚をどこの誰が食べているのか知る由もありませんでした。それで大学院に進学して流通の研究をしようとも思ったのですが、それよりも市場の会社に就職して魚の売買の現場に入るほうが肌で感じられるものがあるだろうと考えて、一念発起で築地の水産卸売会社に就職したのです。
——研究者ではなく築地の水産卸売会社へ。大きな決断だったと思いますが、築地市場にはどれくらいいたのですか?
8年間です。「鮮魚部関西課」という西日本の魚を扱う部署に配属されたのですが、最初の1年間は魚を売らせてもらえなくて、先輩のために氷水を用意したり、箱の数を数えたり、ひたすら下働きをしていました。2年目からトビウオやタチウオ、サワラなど、少しずついろいろな魚を売るようになりました。カツオやアジ・サバ・イワシなど市場の花形とされる魚ではなく、さまざまな魚を少量ずつ売る仕事をしていて、珍しいところではマンボウやギンザメなども売りました。扱う種類や量が増え、お客さんがつくことで出荷者との付き合いもできてきて、商売の幅が広がっていきました。
築地市場の卸売会社に勤務し、売り上げをあげていった3年目からスズキを担当するようになりました。上質な白身魚でレストランでもスーパーでも取り扱われるスズキの売買はとても面白くて、がんばって売っていたら5年目に築地市場でトップになりました。そうなると自分で全国のスズキの相場を動かしているという感触を得られるようになりました。
ただ、市場では産卵期のスズキや小さなセイゴ(スズキの幼魚)を安く売ったりもしていて、資源によくないことをしているという気持ちもありました。売るために「この魚は脂が乗っている」など良いことは皆言うけれど、私が漁師見習いで見たような現場の厳しい現状を伝えると売れなくなるので言わないこと、だから大切なことが流通現場で伝わらなくなるのだとも感じました。
私が市場にいた間でも獲れる魚が変わったり、魚が減ったりしていました。それであらためて市場の役割や水産資源管理について考えたいと思い、東京大学の大学院に進むことにしました。そのタイミングで仕事をやめることにもなり、その後ご縁があってMSCの日本事務所に入ったのです。
京都大学に進学しながら漁師見習いになり、大学卒業後は築地市場でセリ人としてトップの売り上げを誇るまでになった鈴木さん。そこからまた違った視点で海の問題に向き合うためセリ人を辞め、MSCに入りました。後編では、MSCでの仕事や独立後の活動、おさかな小学校の授業内容などについてお話しいただきます。
取材・執筆:河﨑志乃
デザイン事務所で企業広告の企画・編集などを行なった後、2016年よりフリーランスライター・コピーライター/フードコーディネーター。ライフスタイル、飲食、医療などあらゆる分野で執筆を行う。
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