かつて江戸城内に海産物を献上する使命の下に発展を遂げ、寿司、てんぷら、佃煮、海苔など豊かな食文化を生み出した江戸前漁業。時代と共に「江戸前」の範囲は広がり、水産庁の定義によると、現在では東京湾全域を指します。
東京湾に臨む千葉県・船橋の網元三代目として、祖父、父から受け継いだ「漁魂」を胸に、江戸前のまき網漁業を牽引してきた大野和彦さん。魚が本来持っている価値を最大限に引き出す大野さんの「江戸前瞬〆すずき」は、2020年東京五輪で食材として提供することが確定していました。
東京五輪への提供に端を発し、資源管理型漁業への転換を目指して始めた日本初の漁業改善プロジェクト(FIP)の取り組みについて、大野さんにお話を伺いました。
—―昨年、新型コロナウイルスの感染拡大で東京五輪が延期になり、せっかく準備したのに提供できなくなった「瞬〆」のスズキは、その後どうなったのでしょうか。
冷凍フィレなので、賞味期限としては1年延長しても間に合ったのですが、ここはやはり江戸前プライドで古いものは出せません。在庫をなんとかしようと営業する中で、「川崎フロンターレにオリンピック代表選手が何人かいますよ。アスリートに食べてもらいませんか」というお話をいただきました。
そこで、行き場のなくなった「江戸前瞬〆すずき」の冷凍フィレを提供したら、優勝しましたね(笑)。良いご縁をいただき、今年もまた提供する予定です。
地元船橋の回転寿司チェーンでもかなり引き受けてくれました。それから千葉県の取り組みで、コロナで行き場がなくなった高級な水産物を小中学校の給食に出すことになり、おかげさまでスズキを1万食分。足りなくなって昨年水揚げした分も追加しました。伊勢海老や金目鯛も給食に出たそうです。すばらしい施策ですよね。
—―東京五輪が漁業改善プロジェクトのきっかけになった経緯を教えてください。
2013年の秋、IOCのジャック・ロゲ会長(当時)が「トウキョウ」と発表した時、「よし! 絶好のチャンスだ。ここに提供すれば、我々の魚が世界中に認められるだろう。江戸前の魚を世界に発信したい」と思ったんです。
しかし、当時MSC日本事務所(現:MSCジャパン)の職員だった鈴木允さんから「オリンピックに魚を出すのはそんなに簡単じゃない」と言われました。「サステナブル」でないとダメだと。「なんだそれ?」と思いましたね。
そこで初めて「MSC認証」という水産エコラベル認証があることを知り、とりあえず予備審査を受けることになりました。小さな魚や産卵期の魚は獲らないという取り組みを数年前からやってきた自負もあり、認めてもらえるだろうと。
ところが、予備審査の結果は、「それなりに評価はできるが、周りの人たちとルールを決めて世間にも発表するという管理の部分が全くできていない」と。確かにその通りでしたが、それじゃダメだとは正直ショックでした。
—―そこで反発することなく、MSC認証取得を決意したということですね。
ロンドン五輪以来、国際的なイベントでは必ず「持続可能性」が求められ、水産物にはMSC認証しかないという話でした。まず、世界標準がどんなものか知ろうと思い、2015年11月、東京サステナブルシーフード・シンポジウム「魚から考える日本の挑戦」に参加しました。いいタイトルですよね。まさに魚から考える。日本が挑戦するんですよ。
そこに「フィップ、フィップ」と熱弁をふるう村上春二(現、株式会社UMITO Partners 代表取締役社長)という登壇者がいました。「フィップ」とは、MSC認証を取りたいけれども、まだそこには及ばない漁業者向けに、漁業を少しずつ改善していく漁業改善プロジェクト(Fishery Improvement Program, FIP)のことだと。
もしかすると、この人が言っていることが今の自分にぴったりくるんじゃないかと思い、後日詳しく聞かせてもらいました。まだFIPに取り組んでいる漁業者はおらず、今やれば「日本初のFIPになる」と聞き、おお!ぜひやろうじゃないかと。僕、初ものが好きなんです。
—―「瞬〆」スズキのブランド化など、常に一歩先を行く大野さんですが、「日本初のFIP」の取り組みに、周りの反応はどうでしたか。
「また始まった」「やりたきゃやれば」という感じで、反発はなかったですね。自分としては、オリンピックに魚を出すためには乗り越えなきゃならない壁だったので、多少お金がかかることも覚悟の上でした。
MSCの基準を見ると、海の生態系を守り、海洋資源を枯渇させないよう適切に漁獲を管理するためには、こういうことをしなければならないと全部書いてあるんですよ。そうでないとサステナブルではないと。この海を子どもや孫に残していけるのかという不安が常日頃からあったので、すごく腑に落ちました。これはもっと本腰を入れて周りを巻き込まないと、一人では何も変えられない。
そこで、SNSで漁業者仲間に伝えたり、シンポジウムの機会に話をしたりしました。すると案外、私と同じような考えの漁業者が日本中にたくさんいて心強かったですね。一人じゃない。間違ってない。正しいと思ったらもうまっしぐらですよ。
—―船橋漁協所属の漁業者のための勉強会「東京湾の水産資源の未来を考える会」の立ち上げもFIPの一環ですね。身近な漁業者の方々をどうやって巻き込んでいかれたのですか。
漁業者間のルールに従っている限り、安かろうが、市場で求められてなかろうが、獲れるだけ獲ってくる。それを管理するというのは、「あなたの収入を少し減らしてよ」というお願いにつながるわけです。納得しないですよね。
だから、何かそれに代わるメリットがある会にしようと考えました。例えば、エンジンオイルを変えれば燃費が節約できるといった情報提供とか。あるいは、このまま同じことを続けていると、あと何年後には漁師として生活していけなくなると、資源管理の先生を招いて数字で示すとか。
—―東京オリパラ組織委員会が2017年に発表した「持続可能性に配慮した水産物の調達基準」では、MSC認証だけでなく、マリン・エコラベル・ジャパン(MEL)という日本独自の認証も認められました。どう受けとめましたか。
「やっぱり」と言いますか、元々私も心の奥底では、日本で開催するんだから、きっと何か別の調達基準ができるだろうと思っていました。でないと東京五輪で提供する江戸前寿司のネタのほとんどが欧米産ということになりかねませんから。長年努力してきた関係者の男気にも惚れて、2018年にMELを取得しました。
国際基準から見るとMELはダメだと頭ごなしに言う人もいますが、MEL漁業Ver.2のスキームは素晴らしいです。運用面や漁業者がそれに従ってやっていけるか、今後1、2年が勝負ですね。やはり、日本のエコラベルとして世界にアピールしたいですよ。
その上で、「MSC認証は?」と聞かれたら、「あるけど何か?」と言いたいのが私の美意識で(笑)、ここまで来たら中途半端で終わらせたくないですね。MSC認証を取得した暁には日本全国に発信します。もはやオリンピック云々じゃなくなっているわけです。
(FIPを通じて漁業のデジタル化を加速!そして大野さんが今日本の漁業に思うこととは?後編を読む)
大野 和彦
大傳丸六代目漁労長。1982年大学卒業と同時に父が経営する(株)大傳丸に入社。1989年海光物産(株)設立。1993年より両社の代表取締役を兼任。2014年スズキの活〆神経抜きを『瞬〆』と命名、『江戸前船橋瞬〆すずき』として千葉県ブランド水産物や全国プライドフィッシュ夏の魚に認定される。2016年日本初となる漁業改善プロジェクト(FIP)への取り組みを発表。2018年海光物産としてマリン・エコラベル・ジャパン(MEL)Ver.1を取得。現在同Ver.2申請中。
取材・執筆:井内千穂
中小企業金融公庫(現・日本政策金融公庫)、英字新聞社ジャパンタイムズ勤務を経て、2016年よりフリーランス。2016年~2019年、法政大学「英字新聞制作企画」講師。主に文化と技術に関する記事を英語と日本語で執筆。