岩手県最北端の町・洋野(ひろの)町で水産会社を設立し、「北三陸ブランド」の世界展開を目指す下苧坪 之典(したうつぼ ゆきのり)さん。水産加工会社の長男として生まれながら日本の漁師町の盛衰を目の当たりにし、かつては水産に関わりのない業界で営業マンとして働きました。しかし、故郷へ戻り、自ら水産会社を立ち上げ事業を展開。その勢いは今、海外にまで及んでいます。そんな下苧坪さんが今、故郷の水産に寄せる思いとは。
前編では、洋野町で会社を設立するまでの歩みや、下苧坪さんが「まさに未来の水産モデル!」と話す「うに牧場」の全容、トレーサビリティや磯焼けといったウニ再生養殖の課題とその解決策などについて伺います。
下苧坪 之典(したうつぼ ゆきのり)
1980年岩手県洋野町生まれ。大学卒業後、自動車ディーラー、生命保険会社を経て帰郷。2010年に水産ローカルベンチャー「株式会社ひろの屋」を創業。その後3.11で洋野町が大きく被災。新たに「地域と水産業の未来を創る」というミッションを掲げ、2018年に戦略的子会社「株式会社北三陸ファクトリー」を設立。 また、2023年には豪州メルボルンに現地法人を設立、グローバル企業として再生養殖を国内外に横展開。朝日新聞出版誌「アエラ」日本を突破する100人(2014年)。はばたく中小企業・小規模事業者300社(2016年)。地域未来牽引企業(2018年)。東北ニュービジネス協議会東北アントレプレナー大賞(2021年)。ICCサミットFUKUOKA 2023カタパルト・グランプリ3位(2023年)。
——岩手県で水産会社を設立されるまでの歩みをお聞かせください。
岩手県・洋野町の水産加工会社の長男として生まれ、海のすぐ近くで育ちました。実家は130年以上水産業を営んできた家系で、私が小さい頃はまだ海も豊かでしたから、事業も順調で何不自由ない生活をしていました。ですが、徐々に地域の水産業が伸び悩むようになり、私が中学生の時に会社の経営が大きく傾いて、一転して貧しい生活を強いられました。
かつては豊かな海のもと活気のあった洋野町が、人も減って寂しくなっていく様子を見て、「この地域で水産業で飯を食っていくのは無理だ」と、大学に進学して大手自動車会社や保険会社で働きました。
しかしそんな中、2010年に父が病に倒れ、それを機に洋野町へUターン。帰って目の当たりにしたのは、かつて豊かだった海の変わり果てた姿です。一度は将来の選択肢から除外していた水産業ですが、豊かな海を取り戻すために自らチャレンジすることを決め、「株式会社ひろの屋」を創業しわかめを中心とした海藻の販売からスタートしました。
その後、2018年には持続可能な北三陸の海産物を世界に展開するための戦略的子会社である「株式会社北三陸ファクトリー」を創業。今年2023年4月には、オーストラリアでの展開を進めるための現地法人「KSF Australia Pty Ltd.」(KSF=北三陸ファクトリー)を設立しました。
——下苧坪さんの事業の要である「ウニ」についてお聞かせください。なぜウニに着目したのでしょうか。
岩手県洋野町は14,000人足らずの小さな町ですが、世界でここにしかない漁場があるのです。私が「うに牧場®︎」と名付けたもので、これがまさにスーパーサステナブルな漁場なんですよ。下掲の写真のように、海岸沿いの岩場に縦横に溝が彫ってありますが、これは55年前に当時の漁師、組合長の判断で遠浅の岩盤を掘ったもので、ここに沖から流れてきた天然のこんぶやわかめなどの海藻が自然に溜まり、繁茂する仕組みになっています。
うに牧場(増殖溝)は北から南に約18キロの規模で、178本の溝が沖に向かって掘られています。ここに沖から流れてくる天然の海藻が溜まります。陸上で孵化させ、水槽で1年育てた稚ウニを放流し、天然の漁場で6cm台に大きく育ったウニを2から3年後、沖からうに牧場に移植して、最後の1年たっぷりと天然の昆布や海藻を食べさせ、出荷します。1年から4年のサイクルで育つ洋野町のうに牧場は、まさに水産のレガシーだと私は思っています。55年前につくられた仕組みが今も残っていて、この漁場のおかげで洋野町のキタムラサキウニの水揚げは本州でダントツの一位なのです!
——ウニを世界に展開しようと思われたのはなぜですか?
2010年に洋野町にUターンして5月に会社を設立し、翌年3月に東日本大震災がありました。一度は「全てが終わった」と思いながらも再起をはかる中、震災の翌年に見つかったのが下掲の写真です。約70年前の私の曽祖父の代の写真で、曽祖父や祖父が写っています。そして、手前に写っているのは全てアワビなんです。
当時の三陸は蝦夷アワビが豊富に獲れていて、曽祖父は三陸で最多、年間2,000tもの蝦夷鮑を乾鮑(カンポウ)に加工し、香港に全量輸出していました。当時の末端価格は7億円、今の価格で40億円ほどにもなると祖父に教えてもらいました。飛行機もなくインフラが整っていない時代に曽祖父は、自ら船で香港に渡り、現地商人と取引をしていたそうです。現地の商人から売上金を回収し、帰国、換金し、トラックで洋野町(旧種市村)まで戻ってきて、生産者に配当していた。その話を聞いて私は、「これこそがローカルができるグローバルビジネスだ!」と思い、自分も世界を目指すことを決意しました。
しかし、現在の洋野町の海は、当時のように豊かではありません。磯焼けによりアワビの餌である海藻が育たず、この70年でアワビの漁獲量は1/20にまで落ちてしまっているのです。これまで資源管理をせず、豊富な資源を取り尽くして輸出するなど、守るべきものを守らずに資本主義をベースとした経済をつくってきたことが、水産業の最も大きな過ちだったのではないでしょうか。
温暖化や資源管理のほかにも、産地偽装、高齢化による担い手の減少、魚価の低迷、日本人の魚食離れ、DX化の圧倒的な遅れなど、水産業には多くの課題があります。新しくイノベーティブな技術を駆使して水産業を改革しこの現状を打破するには、もはや世代交代が必要だとも感じています。
——ウニを取り扱う中では、どのような課題を感じていますか?
課題のひとつは、いつ、誰が、どこで獲ったのかわからないものが流通していることだと思います。現在、ウニでトレーサビリティを確保できている商品は、日本ではほぼ無いんですよ。そんな中、下掲の写真は弊社のウニのパッケージですが、「洋野」と獲れた場所を商品名で謳っています。また、現在は会社のロゴマークの隣にQRコードを載せていて、いつ誰がどこで獲ったものかがわかるようになっています。
私は、これからの水産業に求められるのは「正直さ」だと思っています。ですから弊社では、日本で初めてマグロのトレーサビリティシステムをつくった株式会社富藤製作所と協働してウニのトレーサビリティを構築しました。その結果、日本国内のみならず、シンガポール、台湾、タイ、ベトナムなどに商品を輸出した際、原産地を証明することもできています。このようにきちんとトレーサビリティを確保すれば、日本のローカルと世界が繋がり、結果としてJAPAN BRANDを守ることになります。
また、最も大きな課題は、ウニが海藻を食い荒らすことで起こっている磯焼けです。海水温の上昇によりウニの動きが活発化し、海藻を根こそぎ食い尽くしています。また、ウニは英語でSea Urchin(海の悪ガキ)。目の前のものを何でも食べつくす、管理が行き届いていなければ悪い害虫扱いされている生物でもあります。30年前、今思い起こすと、私が中学生の頃は天然の昆布やわかめなど、海藻が豊かに生い茂っていて、海底に辿り着くのもひと苦労でした。それが今は下掲の写真のように海藻が全くない状態です。
私は自分の人生をかけて、失われた海藻を取り戻したいと考えています。実際にウニを扱っていて、年々品質が悪くなっているのを実感しています。身入りが悪く、歩留まり(販売できる可食部の割合)が悪い。今や、ウニを獲れば獲るほど赤字になる状態、と言っても過言ではありません。今のままでは、とてもではありませんが以前の取引量に戻すことはできません。
また、三陸沖では暖流と寒流が合流し、世界屈指の好漁場を形成しています。しかしながら、地球温暖化の影響で海水温は年々上昇し、ウニの抱卵放精の時期は早まり、「旬」のタイミングはここ数十年と比較しても大きく前にずれ込んできております。そこで私は、ウニの資源回復と藻場の再生を軸とした新規事業を創出し、長期的なスパンで地域の水産業の疲弊を防ぐために、2016年から研究の一環で北海道大学に通い始めました。
取材・執筆:河﨑志乃
デザイン事務所で企業広告の企画・編集などを行なった後、2016年よりフリーランスライター・コピーライター/フードコーディネーター。大手出版社刊行女性誌、飲食専門誌・WEBサイト、医療情報専門WEBサイトなどあらゆる媒体で執筆を行う。