トレーサビリティ
トレーサビリティ(追跡能力または追跡可能性、traceability)は食品分野において、次のように定義されています。
「生産、加工および流通の特定の一つまたは複数の段階を通じて、食品の移動を把握できること(the ability to follow the movement of a food through specified stage(s) of production, processing and distribution)」
これはコーデックス委員会(FAO及びWHOにより設置された、国際的な食品基準を定める政府間組織)が2004年に採択した定義です。この定義は、日本の「食品トレーサビリティシステム導入の手引き」(2007年3月第2版。農林水産省補助事業により作成。以下「手引き」)や、ISOの食品のトレーサビリティの規格であるISO 22005:2007にも採用されています。
食品のトレーサビリティが注目されるようになった背景
日本では、2000年前後に発生した大規模な食中毒事故における回収・原因究明の失敗や、それに伴う消費者の買い控えなどの市場の混乱、原産地などの表示偽装事件などを経験しました。そして、こうした事態の発生を防ぐ措置(例えば食品安全管理の高度化)とともに、事態の発生に備える取り組みとして、トレーサビリティに注目が集まりました。
これは諸外国でも同様でした。EUと米国ではこの頃 、すべての食品を対象に、事業者に対し、最低限のトレーサビリティのための取り組み(入荷記録と出荷記録の作成・保存と、政府機関が必要とするときの情報提供)を義務づける規制を定め、導入しました。
日本には、2024年1月時点で、食品全般にトレーサビリティ確保を要求する規制はありません。ただし、牛と牛肉(牛肉トレーサビリティ法)、米・米加工品(米トレーサビリティ法)、そして一部の水産物( 水産流通適正化法の対象であるナマコとアワビ。後述)に関しては、それぞれ別の法令と要求により、サプライチェーンの各段階の事業者にトレーサビリティ確保を求めています。
各事業者の役割とチェーントレーサビリティ
食品は生産(農業・漁業)、処理、加工、卸売、小売・外食と、複数の段階の事業者を経て消費者に届けられます。そのサプライチェーンを通じたトレーサビリティ(チェーントレーサビリティ)は、企業単体の努力だけでは実現できません。各段階の事業者が一歩川上(one step up)へ遡及するため、また一歩川下(one step down)へ追跡するための記録を残す。事業者の内部では、入荷品(加工業者にとっては原材料)と出荷品(加工業者にとっては製品)との対応関係が分かるよう記録を残す(内部トレーサビリティ)(図1)。必要なときには、各段階の事業者がこれらの記録を提供し合って、遡及や追跡を行えるようにする。これがチェーントレーサビリティの確保です(図2)。
図1. 各事業者が満たす対応づけの原則(原則4〜6)
図2. 各段階の事業者が満たす対応づけの原則とチェーントレーサビリティ
出典)「食品トレーサビリティシステム導入の手引き」第2版、21ページ
チェーントレーサビリティ確保へのアプローチ
では、どうしたらこれを実現できるでしょうか。
先に紹介した「食品トレーサビリティシステム導入の手引き」は、「複数の事業者で組織を形成し、フードチェーンを通じたトレーサビリティシステム導入を目指すのが最良」と述べています。実際に、特定地域で特定品目を扱う事業者のグループが、あるいは特定ブランド商品のサプライチェーンを構成する事業者のグループが、共同でトレーサビリティシステムに取り組む事例があります。
また、大手の流通企業が、仕入先の事業者に対して取引の条件としてトレーサビリティの取り組みを要求するとともに、定期的な監査において遡及テストを行う場合もあります。
さらに、食品安全をはじめとするさまざまな認証の基準の一つとしてトレーサビリティの取り組みを要求することもあります。
しかし、サプライチェーンの一部の事業者がコストに見合うメリットを見いだせず、記録や情報提供をしなかったとしたら、そこでトレーサビリティは途切れてしまいます。確実なトレーサビリティが求められる場合には、法令により各段階のすべての事業者に最低限の取り組みを義務づけ、必要なときに政府機関が情報を集め調査可能にする、というアプローチが現実的と言えます。
水産物固有のトレーサビリティの目的:IUU漁業由来の水産物の流通防止
水産物に関しても、食品安全上の問題が発生した時の対応や、原産地表示の正しさの検証などを目的として、事業者のトレーサビリティの取り組みが進められてきました。水産エコラベルを表示する加工・流通業者が取得するCoC認証においては、トレーサビリティが主要な要求事項の1つとなっています。
それに加えて、いま日本でも進められようとしているのが、IUU(違法・無報告・無規制)漁業由来の水産物の流通の防止を目的とした、法令に基づくトレーサビリティの確保です。日本では、水産流通適正化法により、密漁品の流通の多かったアワビとナマコを対象に、漁業者や漁協が出荷品に割り当てる「漁獲番号」を、小売・外食に至る加工・流通段階の事業者が記録・伝達することが義務づけられました(2022年12月から)。2025年12月からは対象にシラスウナギが加わる予定です。疑惑が生じたとき、管轄当局は各段階の事業者から漁獲番号を含む記録を収集して調査することで不正流通の有無や実態を明らかにすることができます。
TACやIQの遵守を確保するために
TAC(漁獲可能量)やIQ(個別漁獲量割当)による水産資源管理が普及しているEUや米国では、加盟国/自国の漁業者に操業日誌の提出と陸揚げ量の申告を求めるだけでなく、漁業者の最初の販売相手(漁港の市場に出荷する場合には市場荷受業者)に対し、どの漁業者(漁船)から、いつ、どの魚種を、どれだけ購入したのかを記載した購入記録(sales note)の電子データを管轄当局に提供するよう義務づけています。これにより、漁業者の自己申告だけに頼らず、購入した事業者からのデータも利用してTACやIQの消化状況をチェックすることができます。さらにEUでは、小売・外食に至るサプライチェーンの事業者に対して、水産製品全般に、ロット単位のトレーサビリティ確保(具体的には、ロット識別、入出荷の記録、事業者間の漁獲情報の伝達、管轄当局が求める場合の情報提供など)を義務づけています(EU規則1224/2009 第58条)。
日本ではクロマグロを対象に、ほかの魚種に先行して本格的なTACそしてIQが導入され、資源回復の効果がもたらされつつあります。しかしながらその裏で、漁業者が漁獲報告することなく仲買業者に漁獲物を販売する不正流通が起きています。この無報告による流通を防止することは、クロマグロに限らず、本格的なTACやIQによる資源管理を成功させるうえで不可欠です。サプライチェーンを通じたトレーサビリティ確保により、無報告漁獲物の流通を妨げること、仮に流通してしまったとしても政府機関による調査や取り締まりを可能にすることが期待されます。加工・流通など各段階の事業者の記録作成・保存・提供等の負担を小さくするうえで、デジタル技術の活用が有効であり、今後の法的制度設計と情報システム設計が重要です。
相互運用性を確保するための世界的な動き
EU、米国、さらには日本がそれぞれ別の法的制度に基づいて漁獲証明書などトレーサビリティに関わる情報の提供を求めるようになったことで、特に複数の国/地域の市場に輸出をするグローバルな企業においては、自社とそのサプライヤーがそれぞれ導入しているトレーサビリティシステムの相互運用性の確保が課題となっています。具体的には、各段階で記録する情報のうち必須の項目や、事業者間(つまりはシステム間)で伝達するデータの形式を、なるべく共通にすることが期待されています。2011年に、ISOは各段階で記録すべき情報の規格を発行しています(ISO 12875:2011、ISO 12877:2011)。
近年では、WWFらが水産グローバル企業等に呼びかけて設立した団体GDST(Global Dialogue on Seafood Traceability)は、世界共通の水産物のトレーサビリティ基準の策定に取り組んでいます。また、米NGO、FishWiseのプログラムSALT(Seafood Alliance for Legality and Traceability)は、水産物の漁獲、加工、流通過程のトレーサビリティを電子的に行うeCDT(electonic catch documentation and traceability)のガイドライン「Comprehensive Electronic Catch Documentation and Traceability (eCDT) Principles 」を発行しています。このガイドラインは政府の取り組みへの勧告を主眼としていますが、企業やNGOなども自社・組織の取り組みの改善のために活用できます。
執筆:水産物トレーサビリティ協議会 事務局長 酒井 純